おかげさまで、大入となりました。ご来場いただいたお客様、
本当にありがとうございました。
昨日、敬老の日は、「ねもと」千秋楽ということで、
全ステージ中、もっとも沢山のお客様に来ていただいて、
とてもにぎやかな会場となりました。
ポストパフォーマンストークも熱心に話を聞いていただいて、
なかなか充実した時間になったのではないか、と思っております。
演出家の中野さんに続き、小泉監督の話も、面白かったし!!
私は、舞台上にもかかわらず、素で楽しんでしまいました。
あと、「ゲストとおそろいプレゼント」当たった方、おめでとうございます!
見るたびに「ねもと」を思い出していただければ幸いです。
(といっても、初日に当たった方は、ご自身が「ねもと」さんでしたから、絶対忘れませんね!)
ご来場いただいた皆さまはいかがでしたでしょうか。楽しんでいただけたでしょうか。
もしよろしければ、ご意見・ご感想など、以下メールアドレスまでお寄せください。
お芝居に限らず、物販や会場整理等についてのご要望でも構いません。
columba@pepin.jp
よろしくお願いいたします。
さて、千秋楽のトークで、「ダヴィンチコードみたいに
色々モチーフに意味が隠されている」てなことを口走りましたが、
なんでダヴィンチコードなんて恥ずかしいことを言ってしまったのか分かりませんが、
確かに登場するモチーフには色々と意味があるので、ちょっとだけ紹介してみたいと思います。
とはいえ、ご覧になっているお客様が、観ながら気づいてほしいとは思っていなくて、
たぶん、はっきりと認識はしなくても、無意識的になんとなく雰囲気を感じ取ったり、
感覚的に伝わればいいな、伝わるだろうなというつもりで書いています。
たとえば、「キツネはずるがしこい」みたいなことって、
実際キツネを見たことない現代人でも、なんとなく感覚的に共有してるでしょう?
しかも実際、別にずるがしこくないし。
そういう、感覚的に「だよねー」という感じをお伝えできれば充分なんですが、
公演も終わったし、ネタばれOKになったので、一部ご紹介してみます。
・ ・ ・
死ぬ前には「走馬灯」というやつを見るらしい、といわれているけど、
以前から、自分はいったい誰の顔を思い浮かべるんだろうということがずっと気にかかっていました。
もしかしたらすっごく意外な人の顔が思い浮かぶのかなとか。
いま目の前にいるこの大切な人を、私は忘れてしまうのかなとか。
そのときに感じるのは、未練かな、感謝かな、後悔かな、とか。
そのことを思うと、いつも急かされているような、
後悔しないように生きなきゃ的な変な焦燥感に駆られていました。
生きているうちに会いたかった人すべてに、そこで再会して、
後悔を清算して逝くことができるのなら、
「走馬灯」の存在価値ってあるかもしれないけど、
実際、そういう風に美化されている節も無いではないけど、
正直にいえば、そんなに都合よくいく気はしない。
会いたかった人には会えないままで。
ごめんね、とか、ありがとう、とか言えなくて。
最後に見る幻の中でさえ、思い通りに行かなくて。
そうやって未練たらたらに死んでいくのかな。
ああそれって生きてるときと同じじゃん。
そう思ったら、なんだか今のまま生きていける気がした。
私、日本の昔の(古事記に出てくるくらいの)世界観がすごく好きで、
日本には神様がいっぱいいるじゃないですか?
地上の神様がいて、天上の神様がいて、地下(=根の国、死者の国)の神様がいて。
公演のパンフレットにも書いたんですけれど、
イザナギがイザナミに会いに、根の国に行ったりもするし、
生と死が完全に分断されていないで、両者の間のコミュニケーションが可能で、
そしてそれぞれの世界(天上・地上・地下)は相対的に存在している。
なんか私の勝手な妄想かもしれないですけど、100年経ったら、
地上に居た人がみんな地下にスライドしてるような、そんなイメージ。
それって、生きてたときの世界と変わんねーじゃん!て感じ。
だから、日々生きていることのなかに、死ぬ瞬間がたくさんあって、
死ぬときにも、生きているときと同じことをたくさん経験するんだと思う。
呼吸が止まるとか、心臓が止まるとか、は本質的なことではなくて、
バクテリアに分解されて土に還ってしまうまでは、(あ、日本の場合は燃やされるけど)
きっとそうやって死んだり生きたりしつづけるんだと思う。
私はフェリーニの「81/2」という映画が大好きです。
お芝居をつくるときは、いつもこの作品のことを思い出します。
「人生は祭りだ ともに生きよう」
この台詞の直前、彼は自分の頭をピストルで撃ち抜く(と妄想する?)んだけど、
それはまさに、「生きてるなかで死ぬ瞬間」なんじゃないかと思う。
そうやって時々私たちは「根の国」に近づいていっては、死と対話する。
●ねもと
「根の国」の「ね」は、「ニライカナイ」の「ニ」と同義と言われています。
どちらも「根っこの方」という意味で、
魂が還ってまたやってくる根源とか、生命の源といった意味を持ちます。
また、それは必ずしも垂直方向(地下)に限らず、
海の向こう(彼岸?)としてイメージされることもあります。ニライカナイですね。
本当は、もともと水平方向だったのが、天上の国(高天原)を
設定した時点で垂直方向にした、という説もあるとか。
キリスト教的な世界観では、たぶん命は天からやってきて、死んだら地下の方へいくんでしょうけど、
八百万の神様が跋扈する日本では、生も死も、「ね」の方にある。
●居酒屋
今回のお芝居では、「ねもと」は居酒屋で、なんだかふざけてるようだけど、
居酒屋って、古くは「アジール」の一種とみなされている場合もあって、
死んでいく人と生きていく人が「いよーっす」って
気軽に会う場所には、ぴったりなんじゃないかと思ったのです。
実際、お酒の場では「無礼講」なんて言ったりしますよね。
で、「カンパイ」して宴会が始まっちゃったら、場が確定しちゃう(死んじゃう)から、
「カンパイするまで」の不確定な時間=死んでいく過程で、
生と死の間で浮遊しているときだけに可能な話はどうかな、と思って。
●枝豆
ちなみに、枝豆、というかお豆は、生者と死者を媒介する食べ物として、
かなり古い神話や民話によく登場するそうです。
私たちも、節分に死者---鬼に向かって、お豆を撒きますよね。
あれは、鬼を追いやっているというよりは、まずは呼び出すという機能があるとか。
同じような風習は、世界のほかの地域の原住民の間にも残っているそうです。
・ ・ ・
どうでしょう。
これを読んで、アハ体験ならぬ、旭化成のCMみたいに「イヒ!」ってなっていただければ幸いです。
とはいえ、お芝居の楽しみ方や解釈は、人それぞれ。
「全然違うことを考えてた」という方がいたら、むしろ嬉しいです。
そういう方は、ぜひどんな風に思われたか、教えてください!
次の公演は、年度内を予定しております。
それまで、またこちらのブログで様子をお知らせしていきたいと思いますので、
ちょくちょく遊びにいらしてくださいね。
ご来場ありがとうございました!
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